昭和59年07月10日 月次祭



 神吾と共にありとか。同行二人とかと言う様な言葉が使われます。お道の信心をさせて頂く者は、いつもこうありたい、口に金光様金光様を、まぁ唱え続けると言う事も有り難いですけれども。教祖様の教えて下さった、教えを血に肉にして行く、それが自分の生きる心情とも血肉になっていくと言う事が、同行二人でありまた吾神と共にあると言う事だと。金光様の信心を頂いておる、お参りをさせて頂いておると言うだけでは、私は同業二人とか、われ神と共にあると言った様な。
 自分だけは思うとるけれども、そういう働きを受ける事は出来ないと思うですね。今日の夏期信行の後の御理解は、「まめなとき家業をおろそかにし、物事におごること。」確かそうだった。是は明日で。今若先生の。今日私は病院行きでしたから。行く前に何時もこちらあへ控えてこちらに回しております。昨日回していなかったらしいですから。そのことを訊ねに参りました。それでそこに控えてあるのがね。
 その意味が分かるかなと。意味は分かるけれどもその意味のいわゆる内容が、自分のものになっとらないと人に伝えても、人におかげとして伝わって行かない様に、というてお話ししたのでございます。その御理解に世間では仕事に忠実と言うか、よく働かれる。また始末倹約を食べる物も食べん様にして、そして一生をまぁ本当は幸せと言う事にはならんなりに終わって行く人が、世の中にはいっぱいある。
 正直に仕事に忠実に、始末倹約して、物事に贅沢やらせん様にして行けば、必ず幸せがあると言う事には限りがない。そういう生き方をさせて頂いても、晩年困られたり、または幸せとは、なら縁の遠い生涯を終わって行く人がある。けれども教祖様が、かく教えて下さったから、教祖様がまめな時家業を疎かにしてはならないぞと。物事におごってはならないぞと。
 と例えば教えておられる、教祖様が教えて下さる御教えとして、是を頂く時必ず人間幸せな道が開けて来る。とま言う事を強調してその考えは御神誡ですかね。まめなとき家業を疎かにしない。少お金があるといやぁすぐ贅沢をしたり、する様な事はお道の信心さして頂く者としては、勿論贅沢と言う見解は、非常に広いでしょうけれども。もうとにかく分に相応した生き方をさして貰うと言う事が生き方のいわゆる心情になりましたら、是は必ずいわゆるおかげに繋がり幸せな道が開けて来る。
 そこに普通一般で言う、まぁ道徳的ないろんな言葉だとか表現と教祖様と御教えとの違いをはっきりしておかなければなりません。今日こちらに出ます時に、今日は皆さんにどんなお話を聞いて頂こうかと思うたら、歌の文句にあります。「君に貰ったハンカチが松葉の模様が気に入った。枯れて落ちるも二人連れ」という事。枯れて落ちる、私共が魂の世界に入って行ってもやはり同業二人であり、吾神と共にありと言う真実に触れてのものであり、信心でなからなければならない。
 それはただ金光様金光様を唱えておるだけではなくて。金光様が教えて下さった御教えが。血に肉になって行く為の精進これを行じている。自分の言うなら信心の教えを元にすると、そうした素晴らしい一つの人生観と言うものも変わって来なければならない。ただ金光様金光様と空念仏的な金光様では大したことはない。4日の神愛会にゃ何時もの先生方が集まって参りますが。なかに石動教会の宮田先生が発表致しておりまして、そして私はその会には入りませんから。
 そのテープにとってある模様を聞かせて頂く訳ですけれども。本当にその先生方が御理念にもとづく生き方。それを布教の現場でおかげを受けておられる。おかげを頂いた話。また失敗談もありますけれども。やはり血に肉になっておる一つの過程を御話しになりますが。宮田先生のお話を聞いて私しは感心しましたんですけれども。私はま何十年間いろいろこうお話をして参りました中には。
 まぁいつ同んなじお話が沢山出て参ります。そういう話をもう逐一一分一厘も間違がわん様に、あのそれこそ筑後弁で話しておりますから、筑後弁で親先生のこう御教え下さったと言う話を致しております。中に私しが小学校の時に、ちょうどお正月の元旦式のために。講堂の前にずらぁっとこう廊下に並んでおりましたら、前の方から走って来た友達が、私しにバァンとこう突き当たった。
 私はもう有名な霜やけが手に足にしておりましたが。足のしもやけの上をいやっと言う程、踏みつけたその時、かっと確かに手をこう振りあげた様に思うが。そんときに私しの頭の中に閃いたのは、私しの母の父であり私しのためには爺でありますが。もう中々命信な方で。もう本当に仏様のような人でした。仏教真宗に帰依してもう本当に、大根の虫でも殺さんと言う様な生き方をした人でございましたが。
 或る時私しに、総一ちゃん喧嘩どん決してしちゃならんぞと。一つだんくらわせられたっちゃナマンダブナマンダブと言いよると痛いとがようなる。それがね。その話がその今足を踏んずけられた瞬間私の頭のひらめいた。今なら金光様金光様というとこでしょうけども。子供の時爺の教えた通りのナマンダブナマンダブナマンダブと言うた事を覚えておりますが。そのお話を其のままにするんです、お話を頂いてそれをそのまま覚える。また体でそれを実験し実証して行く。
 またそれを実験実証しておるからこそ、そのお話の中にひとの心へ伝わって行く。訴えるものがあるのだ。私はね、枯れて落ちるも二人連と言うのは、そうした御教えがね、一カ条二カ条じゃない、金光大神の教えがそのまま自分の生活の中に溶け込んで、それが血になり肉になりして行くものでなからなければ弱い。私は宮田先生の話を聞きながらそれを思うた。本気で合楽の信心をいただこうとしておるなぁと。もう先生は合楽に御縁を頂いて5年ぐらいになりますでしょか。
 私しの椛目の愛子の学院が、その奥さんが同期であった。ので夫婦でここに見えられてまぁ合楽に帰依して行かれておる訳ですけれども。あの遠い所から東京まで出るだけでも、まぁここから私共御本部参拝する位な、離れた所から、毎月これはもう絶対神愛会に出て見えられる。初めの間は旅費に困ると言った様な事もあったけれども。これだけは貫かなければと、まぁ思うて御繰り合わせを頂いておると言われる。
 最近では御理念による助かりと言う事と、御理念を分りたいという人達やその周囲周辺に、段々出来て来たと言う事。本当に有り難い事だと言うて話しておられたことがございましたが。先生がここに見えた時に何かキザな格好の今のはやりの青年の様なスタイルでここにこう髭を生やしてまいりました。私は髭をたてるとが一番好かんと言うたら、もう早速ここにおられる間にひげを落としてこられたんです。
 はぁこの人は素直な方だなと思いよったら、本当に素直に合楽の御信心を、言うなら頂いてそれを実験実証を布教の上に現しておられる訳であります。お互いの信心、これだけは教祖様の御教えを頂きぬいておる。たくまずしてそれが出来る。いうなら是は自分の血肉になっのだろう。と言う信心が育って行くと言う事が、私しは信心が育って行く事であり。これならぼそれこそ発露じゃないですけれども。枯れて落ちるも二人連、魂の世界に入ってもそれを頂いて行く事が出来る。
 おかげを受ける事が出来ると思います。ただ金光様金光様とまぁ念じておると言うだけから。教えが何時も生き生きとして、生活の中に臨機応変頂けれるおかげ。同行二人吾神と共にありと。金光様の信心しておれば、そうかというとそうじゃないと私は思う。私は頂いておるならばそれだけ、自分の血肉になっておるならば、それだけのおかっげが見えなければ駄目だと。
 今日は若先生に、明日の夏期信行の御理解の芯になるでしょうか。「まめな時家行をおろそかにし、ものごとにおごること。」と言った様な例えば御教えが一番の血肉になっておかげを頂いていくと言う事は。世間一般で言われる、人間は真面目だなかりゃいけない。贅沢をしては驕りがましい心を出してはいけない。だからそういう手本の様な生き方をしている人でも。
 世間にはいくらも難儀なまま生涯を終わって行く人がある事実を思う時に。信心をさせて頂く者のおかげわその御教えを自分の血肉にしてね。只今の御教えなら御教えだけでも自分の血肉になって行くという精進をして初めてなる程吾神と共にあるんだなぁ。同行二人のおかげを頂いておるだなぁという思いを、いよいよ強くして参りますならば。是は必ずやおかげの世界にお導きを頂く事が出来ると私は信じます。
 金光様の信心を頂いておっても難儀また不幸のまま亡くなった人は沢山ありますけれども。私はそのう一筋の言うならば生き方が教えにもとずいて成されていくならば、是はもう絶対おかげの世界に通うじじ、通う事であると思います。私しは今日は少うし頂き違えたかなぁと神様は枯れて落ちるも二人連と言う様な歌の文句をお示し下さったんだが。今日のお話はそれになっておるかどうか。
 皆さんの御信心で判断し、そして分からなければならない事は。本当に同行二人であるか。本当に枯れて落ちるも二人連で行けれる内容が、自分の信心の内容に育っていっておるかどうかを。ま一遍確かめて。本当の意味においての、お道の信奉者であることを願わなければならんと思います。
  どうぞ。